五十里ダム一般公開(日光市)2014.08.06

鬼怒川上流ダム(川治ダム・川俣ダム・五十里ダム・湯西川ダム)の一般公開最終弾、五十里ダムを紹介します。
五十里ダムは、堤頂長267m、堤高112mの重力式コンクリートダム、クレスト2段式ローラーゲート3門、コンジット高圧ローラーゲート2門、ジェットフローゲート1門、ホーロージェットバルブ1門、1950年着工1956年完成、国土交通省で管理されています。
五十里ダムは日本の大規模ダムの草分けで、当時、日本一高いダム、また、放流設備高圧スライドゲートは国内ではじめて導入されました。

この日、多くのダムマニアが見学に来ていましたが、私達は時間が無いため天端通路だけ見学して次の会場川治ダムに向かいました。
残念な事に、五十里ダム直下へは降りることが出来ませんでした。来年7月頃のダム一般開放には是非来たいと思っています。
上は、ダム直下へのエレベーター。
中央はクレストゲート上部。

下は、ダム上流側。
手前、2門のゲートが後に追加されたコンジット高圧ローラーゲートかな。
五十里ダム施設改良本体工事(1999年10月~2003年3月)
ダムサイトにある五十里ダムのモニュメント。

五十里ダムを見学した帰り、受付で炭のお土産を頂きました。
ダム湖に流れついた流木を炭にしたそうです。バーベキューには使えなかったので部屋などの脱臭・乾燥材代わりに使いました。
また、今回、うれしい事がありました。
私の職場の同僚の息子さんからお手紙を頂きました。(下)
小学3年生だそうですがダムに興味をもっているそうです。今回の一般公開も勧めたのですが部活動があるため行けなかったそうです。
私からのお土産として、ダムカード6枚を差し上げたら嬉しいお手紙が届きました。
これからも、自然のエネルギーを利用したダムに関心を持って頂ければ幸いかな。

下は、新聞の折込に入っていた栃木県民だより。
ダムカードの紹介が出ていました。これを機に多くの方がダムに関心が持てれば。
以上で、2014年度の栃木県内のダム一般公開の紹介は終了です。

マイサイト”ダムin栃木”の五十里ダムも参考にご覧ください。
ダム便覧 五十里ダム
五十里ダム
鬼怒川ダム統合管理事務所・国土交通省 関東地方整備局・五十里ダム
栃木県日光市川治

湯西川ダム一般公開(日光市)2014.08.14

鬼怒川上流ダム(川治ダム・川俣ダム・五十里ダム・湯西川ダム)の一般公開第三弾、湯西川ダムを紹介します。
湯西川ダムは、堤頂長320m、堤高119mの重力式コンクリートダム、自然越流ゲート4門、オリフィスローラーゲート1門、ジェットフローゲート2門、2008年着工2012年完成、国土交通省で管理されています。
栃木県内に建設されたダムの中では一番新しいダムです。

見学会の受付でヘルメットを装着し、ダム天端のエレベーター(上左の写真の左の塔)で堤体直下に下りました。
堤体の真下には、建設機械が設置された高所作業車でダムの様子を見ることが出来ました。(写真上)
また、ダム天端の通路ではテントの下で冷たいかき氷が振舞われました。(下左)
下右は、天端から見た放流ゲート付近。

上は、ダム直下より見た堤体。下から見上げると迫力ありますね。
下は、放流ゲートからの放流の様子。

下左は、堤体の岩着部に設けられたリムグラウトトンネル。内部気温は13℃寒いくらい。

下は、放流ゲート施設内の様子。

下は、選択取水設備操作棟の内部。

下は、湯西川ダム見学会で配布された資料。

下は、湯西川ダム見学会の案内マップ。

マイサイト”ダムin栃木”の湯西川ダムも参考にご覧ください。
湯西川ダム
栃木県日光市湯西川
鬼怒川ダム統合管理事務所・国土交通省 関東地方整備局・湯西川ダム

取材・撮影 2014年08月14日

川治ダム一般公開(日光市)2014.07.27

鬼怒川上流ダム(川治ダム・川俣ダム・五十里ダム・湯西川ダム)の一般公開が7月27日に開催されました。
私も友人2人と参加してきました。天候は朝は快晴でしたが午後は夕立があり傘を差しての見学でした。
鬼怒川上流ダム群は国土交通省の管理ダムで、午後2時ごろ来ましたが400人ほど見学者があったそうです。女性も多く、ダムに関心があるようですね。(ダムガールかな)
私も始めての参加でしたが、キャットウオークのスリルと、ダムの雄大さ素晴らしさを堪能してきました。

管理棟よりエレベーターでダム下流側壁面中央のキャットウオーク入り口まで急降下。
そして、堤体内部の通路を通ってキャットウオークへ。堤体内部の通路の気温13℃位でした。(上写真)
下は、キャットウオークから見た川治ダムです。

  

今回、ダム見学会に参加しましたので、認定証なるものを頂きました。
下右には、それぞれのダムカードが入っています。

マイサイト”ダムin栃木”の川治ダムも参考にご覧ください。
次回は、湯西川ダム一般公開の模様です。

川治ダム
栃木県日光市川治温泉川治

取材・撮影 2014年07月27日


川俣ダム一般公開(日光市)2014.7.30

鬼怒川上流ダム(川治ダム・川俣ダム・五十里ダム・湯西川ダム)の一般公開、川俣ダムを紹介します。
川俣ダムは、堤頂長131m、堤高117mのアーチ式コンクリートダム、クレストゲート6門、コンジットゲート2門、ハウエルバンガーバルブ1門、1959年着工1966年完成、国土交通省で管理されています。アーチダムとしては日本一の縦長のダムです。

川俣ダムへは9時頃来ましたが、すでに多くの見学者が来ていました。
受付でダムカードや資料を頂き、ダムサイトに設けられたエレベーターで中段のキャットウオークへ。
上は、川俣ダムの全容です。アーチダムの特徴が良く分かりますね。

上は、キャットウオークから見たダム堤体。
キャットウオークの下にコンジット高圧ローラとハウエルバンガーバルブが見えます。

下は、キャットウオークから見た川俣ダム堤体の絶景。スリル満点でしたよ。

下は、ハウエルバンガーバルブ真上から見た下流側。

下は、クレストローラーゲート内の様子。

右は、天端通路から見た瀬戸合峡。秋は真っ赤に紅葉しますよ。

下は、川俣ダムの諸元。

下は、川俣ダム見学会の案内マップ。

川俣ダム
栃木県日光市川俣

取材撮影 2014年7月30日

深山ダム現地見学会(那須塩原市)2016.7.26

栃木県那須塩原市百村にある深山ダムの現地見学会に参加してきました。
見学会は、国土交通省・林野庁主催の「森と湖に親しむ旬間(平成28年7月21日~31日)」の一環として実施されました。

午前10時から始まりましたが第2回目の午前11時に参加してきました。
受付を済ませ資料などを頂き、まず管理事務所でモニターを見ながら深山ダムの概要を学習。
質疑応答などもあり大変勉強になりました。
そして、早速ダムサイト下へ移動。

職員の説明などを聞きながら半開きになったラジアルゲート周辺を見学。

傍で見るラジアルゲートの大きさには感激しました。
貯水の常時満水位はEL 735mです。
因みに、この日の貯水率は約9.1%だそうです。

湖面を見ると貯水率の低さが手に取るように分かります。
今年は雨量も少なく、奥山の積雪も例年になく少なかったそうです。
深山ダムには数回来ていますがこんなにも貯水の少ない光景は初めてでした。

ラジアルゲート付近の見学も終わり急な階段を登って管理棟へ。
管理棟の前には巡回調査用のモーターボートが置いてありました。

下左は、天端の端から。右はダム下流より見たラジアルゲート。

下右は、見学会の記念に頂いた遮水ゴムパッキンの切れ端とボルトナット。

下は、深山ダムの資料です。

取材撮影 2016年7月26日

  


商用写真(化粧品)2014.11.12

先日、友人の紹介であるネットショプのウエッブサイトの構築を依頼された。
友人は、以前私が化粧品関連のウエッブサイトを作った事があるのを知っていたからだろう。
楽天市場などのネットサイトは、サイトデザインも大切だがそれ以上に商品の紹介画像、商品紹介のチャッチコピーがモノを言う。

以前、依頼されて作ったサイトは5年ほど前である。
最近のサイト構築にはHTML5+CSS3を使ってスマートフォンサイトも構築できるのだが商用写真やキャッチコピーは如何なものかと依頼を躊躇している。
作成に必要なPCソフト、フォトショップCS3、イラストレーターCS2、古いがドリームウエーバー、フラッシュなどは揃っているのだが。

6枚の写真は、5年前に全て自前で作成した商用画像です。
2010年には、私の友人の経営する建築会社秋澤建築のサイトなどを作成していました。

追記
最近は、友人の紹介で会社のWebサイト構築を請けております。
株式会社KJM http://kjm-craftauto.com/index.html
株式会社M’s Safety http://www.mssafety.co.jp/index.html
株式会社 SUNLIFE  http://www.sunlife-0424.com/
株式会社利恵製作所 http://www.toshieseisaku.com/
Yoga Life(ヨガライフ) https://yogalife.conohawing.com/

写真について(四)

その当時使っていた150万画素のデジカメの描写にはWeb上では何の不満もなかった。
とちぎ花博の会場で朝撮ってきた画像をPCのレ・タッチソフト、AdobePhotoshop5.0で画像を処理、そしてすぐさまWebにUP、デジカメの速効性、これはまさに写真に於ける一大革命ではないだろうか。

しかしデジカメ市場に於けるメーカー間の熾烈な競争、これによってデジカメの性能はますます向上し、今や画素数は800万画素以上、また取り扱いも至極簡単になり全てがオートマチック。ただ被写体にカメラを向ければ誰でもが美しい写真を間違いなく撮れる、ウン十万円もする高級な一眼デジタルカメラも今や一昔前の”バカチョンカメラ”と同列になってしまったのではないだろうか。(これはあくまでも私の独断的偏見なる解釈ですので)。

写真関係のWebサイトは今や星の数ほど(私も含めて)あるがどのサイトをみても有名な写真家が撮ったのではないかと思えるような素晴らしく美しい綺麗な作品が目白押しである。
そう言う私も例に漏れず、その後新しく手に入れたコンパクトデジカメで綺麗な写真を追い求め、気に入った作品を見ては悦に入る毎日であった。

そんなある日、写真家のサイトをネットサーフィンしていてある写真家のWebサイトに出会った。そのサイトは全てが銀塩モノクロームで構成され掲載された作品のモノトーンの素晴らしさ美しさに魅了されてしまった。
そうだ、これだ!。カラーだけが写真ではない。

昔のように写真の原点に戻ってモノクロームの素晴らしさを再現してみよう。そして拘る以上は銀塩モノクロフイルム、デジカメで撮りレ・タッチソフトでグレースケールに変換する手法もあるが拘る以上は原点からやってみよう。
一眼レフカメラは以前に買ったミノルタα303siと埃を被ったペンタックスSPFがあった。別に銀塩を始めるからといって新しいカメラを買う必要もない、機械が正常に動くのとレンズにカビなどがなければそれで十分である。しかしSPFの平均測光機能は完全に壊れていた。でも露出は303siで十分代用できた。

休みの日、撮影に行くときはこの二台のカメラにモノクロフイルムを詰め、モノクロに合う被写体を求めて徘徊していた。
日光、足尾、渡良瀬遊水地、そしていまだに拘っている上南摩へとのめり込んでいった。
最初、フイルムはラボへ出していた。しかしモノクロフイルムは需要が少ない為か仕上がりが遅く10日ほど掛かってしまう。露出具合(写真の出来具合)を確認するためにも10日という時間は余りにも長すぎた。

こうなったら自家現像しか方法はない。しかし昔やってはいたがすでに30年も前の事である。処理が出来るかどうかそれが不安であった。
早速、フイルム現像に必要な機材・薬品などを買い揃え、資料を見ながら昔の感覚を想い出し次第にフイルム現像の魅力にとりつかれていった。
(この様子は”フイルム現像顛末記に綴ってあります。)
現像てんまつ記 その一(夏)
現像てんまつ記 その二(秋)

モノクロ写真を撮るようになってから月10本程消費するようになった。
週末にカメラを持って出かけるとだいたい2~3本は撮ってしまう。
使用するフイルムはプレスト400かトライXが殆どで、予備にアクロスを数本持ってゆく。
午前中撮影し、そして午後には撮り終えたフイルムを現像処理、夜までにはスキャナーで読み取ってフォトショップで画像処理して即UPしてきた。

数年前からWebデザインもある程度考えるようになり、フラッシュで編集して載せるようになった。
フラッシュを多用する目的は、デザイン的な面があるがそれと共にUP画像をコピーされる事が出来ない為でもある。
人によってはフラッシュを用いて写真を見せる事を邪道だと嫌う方もいるようだが、Webデザインが進歩している今、その様な考え方自体、頭が古いのではないかと思ってしまう。

さて現像であるが、最初の頃は浅沼商会のプラステック製ベルト付きのタンクに巻き込んでいた。
付属のベルトには両側にダボがあり、巻き込んだフイルムとクリアランスができる様に工夫され、初心者にも簡単に巻き込む事が出来る。
(私も昭和50年頃に現像を始めた頃は、これを使って覚えたものである。)
最初、巻き込みには暗室もダークバックも無かったので暗い押入れに入り、どてらを被って汗だくになりながら巻いていた。

現像液はいつも手に入りやすいフジフィルムのミクロファイン。
現像時間が長いため現像ムラが出にくいのとシャープに仕上がると言う事で1:1の希釈を採用した。
現像時間、液温、攪拌はメーカーの指定を忠実に守って処理。
処理液はそのつど水で更に薄めて廃棄。
液温は大きな器に水を張り、夏場は氷、冬場はお湯で20℃に保ち、その中へタンクを浸して処理液の温度を20℃に保った。
(5月と10月頃は水道水が20℃位なのでストレス無く温度管理が出来る。)

その後、現像液はコダックのD-76に何故か拘りを持ち、今でも私の標準現像液としてD-76、1:1希釈で処理している。
(フイルムがコダックの場合、ミクロファインでは現像処理時間の正確なデータがないためでもある。以前、フジフイルムに問い合わせた事があるが、処理時間は分からないとのにべの無い返事が返ってきたことがあった。)
停止は文献などでは氷酢酸の希釈を薦めているが、水道水を用いても現像ムラなどの変化が無いので今は殆んど水道水で処理している。

(どうしても鼻にツンとくるあの酢酸の臭いが嫌いな為でもある。)
で、だいたい30秒位の攪拌処理。
定着はフジフィックスで10分。
水洗いはフジの水洗い促進液をタンクに注入し、30秒ほど攪拌して水道水の流水で10分程の処理。
これが私の標準的なフイルムの現像処理である。
もともと科学分野には疎い方なのでフイルム現像に関する専門的な化学薬品の知識はない。ただフイルムのコマ数を多く撮って試行錯誤、まさに習うより慣れろである。
(その後、35mmタンクは、LPLのステンレスタンクに替えた。)

(風のつぶやき 写真についてより抜粋)

写真について(三)

ここに一枚の写真がある。
この写真は、私が写真を始めて最初にフイルム現像にトライした記念すべき作品である。
紙製のネガケースには35mmフイルムが6コマに切られて収納され、昭和47年5月撮影とメモがしてある。
フイルムは富士フイルムのSS、36枚撮り、フイルム感度当時はASAと呼ばれ感度100で今のアクロスの前身である。ネガケースには現像処理データも書かれていた。

当時の現像タンクはつい最近まで使っていた初心者向きの浅沼商会プラスチック製ベルト付である。
現像液はミクロファインで処理時間はメーカー指定で処理してあり今とほとんど変わりはなかった。
200本程あるネガの内100本ほどのネガの状態は至って良くカビは殆どなかった。
おそらく当時、鰹節の入ったブリキ缶にテープで封をしていたので湿気を通さなかったのであろう。
ブログ”風のつぶやき!”にUPしてあるチョッと時代遅れの写真や雲の写真は殆どこの頃の作品である。
それから半年位してから漸く引伸ばし機を買うことができた。

それまでは気に入ったネガをK氏の所で焼いていたのだが迷惑を掛けるのと気が引けるのが手伝って機材一式を思い切って揃えてしまった。
確か、引伸ばし機はラッキー90Mで全紙まで引伸ばせる機械であった。プリントは半切が主で印画紙は月光印画紙 (三菱製紙)を使っていた。特に気に入った作品は半切に伸ばし、自分で木のパネルを作って貼り込み部屋に飾っていた。
今でも何枚か残っているが水洗いが甘かったせいか黄色く変色しまっている。

今、思い出すと写真にのめり込んでいたあの当時が非常に懐かしい。
狭い押入れに潜り込んでは”どてら”を頭から被り、汗だくになりながら現像タンクにフイルムを巻き込んだ事、寒い冬の夜、両親が寝静まった後、自然暗室である風呂場でプリントする為にバットに張った現像液や定着液の温度を調整するために鍋にお湯を入れそれをバットに入れて温度を管理した事、定着の終わったプリントの水洗いの為、バケツにホースを引き込み長時間水道を出しっ放しにして水道代が勿体ないと母に叱られた事、などなど想いだしたらきりがない。

酢酸の匂いの篭った狭い風呂場で露光を掛けた印画紙を現像液に浸し、撮った画像がジワジワと現われる時のあの緊張感、そして感動。それは至上の悦楽でもあり、この至福の時は写真をやった者でなければ味わう事が出来ないのではないだろうか。
技法的にもフイルムの増感や減感など。
特に高感度フイルムをわざと感度を上げて撮り(TRY-XをASA1600で)温度を上げたりした現像液で処理する増感もよくやった。

プリントすると粒子が非常に粗く仕上がり、当時写真雑誌で流行っていた前衛的な作品に真似て仲間同士で自慢しあっていた。そして思いつく限りのいろいろな技法を自己流なりにも試していた思い出がある。
その様な訳で当時の僅かな小遣いは殆んど写真という道楽、いや高尚な趣味に消えていったのである。

数年勤めた某電気会社から木材会社と言う未知の世界へと転職した私は新たな仕事を覚える忙しさもあってカメラを持つ機会も少なくなっていた。それでも暇を見つけてはモノクロに似合いそうな被写体を求めていろいろな場所を徘徊していた。
そんな時、友人から中判カメラを使っては見ないかと言う話があった。
友人はマミヤプロフェッショナルC220を持っていたが新しくゼンザブロニカ6*6を買ったのでC220を安くゆづると言う話であった。

その頃、私も中判に魅力を感じはじめ欲しくてしかたがなかった。この降って湧いたような話に飛びついたのは言うまでもない。
C220は二眼レフカメラ、上のレンズで被写体を確認し下のレンズで撮影する上から覗き込むタイプでボデーには標準レンズが付いていた。しかし同じ中判6*6なのだが友人の買ったブロニカが何故か気に掛かる。しかしその当時の私には新品のブロニカを買える余裕などなくC220を2年ほど使っていた。

数年前に整理したネガを見てもブロニーサイズのネガは数えるほどしかなかったのであまり使わなかったのであろう。その当時の私には単体露出計もなく6*6という真四角のフォーマットサイズが使いこなせなかったのではないだろうか。ただ中判という響きの良い名前だけに魅せられていただけなのかも知れない。
それからは仕事に追われ、結婚という事もあって約20年ほどカメラから離れてしまっていた。

1997年7月、私は以前から興味のあったインターネット上にホームページを開設した。
勤めていた会社で新しい事業を始めたことでこの事業を広く知ってもらう目的でその事業内容や情報を詳しく発信していた。最初は今のような便利なソフトも少なく高額であった為HTML言語を勉強しながらメモ帳にタグを打ち込んで立ち上げていた。
またその頃はアクセスポイントが東京にしかなくダイアルアップ回線だったので毎月の電話料金が4~5万円ほど払い込んでいた。

ホームページを更新するのに只一つだけ悩みがあった。写真である。Webに強力なインパクトを与えるには何か惹き付けるような写真が欲しかった。最初はフリー画像で賄っていたがどうしてもオリジナルの画像が欲しい、そんな時、前にも書いたように会社でCADと一緒にデジカメを導入した。150万画素の最新コンパクトデジカメであったがオリジナルの画像を載せるには十分過ぎる解像度であった。

2000年秋、私の住まいの近所の公園をメイン会場にした平成12年全国都市緑化フェアが開催された。私はその様子を発信してみようと開幕以前より会場に入り込んでその様子をデジカメで撮り、会期中毎週のように緑化フェアの情報を発信続けていた。
そしてそれを境にホームページも写真やエッセイ等の私個人の趣味が大きくウエイトを占め、会社のホームページとは別に私の趣味(写真やエッセイ)の発表の場として「五月の風」を発信してきたのである。

(風のつぶやき 2005年5月記事より抜粋)

嘗ての御母衣ダム 1974年(岐阜県)

物置の奥にしまって置いたネガの整理をしていたら思いがけないネガフィルムが出てきた。
私が22歳の頃、友人と3泊で北陸を旅した時の写真である。
その中に、岐阜県大野郡白川村の御母衣ダムで撮った写真が数枚あった。
多分、白川郷に向かう途中に寄った覚えがある。
その頃は、ダムには全然興味もなく序に寄ったのだろう。
(1974年撮影)

水系:庄川
型式:傾斜土質遮水壁型ロックフィルダム
流 域 面 積:442.8k㎡
堤高:131m
堤 頂 長:405m
堤 体 積:7950.000m3
総 貯 水 量:370,000,000m3
有 効 貯 水 量:330,000,000m3
1957年着工1961年完成。
御母衣ダム
岐阜県大野郡白川村大字牧
参考サイト
ダム便覧

閑話休題
北陸の旅は、私の車で二泊三日をかけて栃木から群馬、岐阜、富山、能登半島を一周してきた。
白川郷と能登半島が主な目的でした。
なるべくお金を使わずに行こうと言うことで、宿は取らず食事もパンなどで凌いだり、風呂は銭湯や海で済ました覚えがある。
一番の想い出は、能登半島かな。

恋路海岸で夜を過ごしたが車の窓を開けたまま寝たので一晩中蚊に悩ませれた。
また、恋路海岸から富山に向かう途中、車のファンベルトが切れてしまった。
ファンベルトの替えは持って無いし、ガソリンスタンドも無い。
トランクを開けて何か無いかと探して見ると、タイヤチェーンを固定する輪ゴムがあった。
仕方が無く輪ゴムをファンベルトの替わりに付けて数キロ走った覚えがある。

ガソリンスタンドで見て貰ったが、あと数キロ走ればエンジンを焼いてしまって車はお釈迦だよと言われた覚えもある。
でも、楽しかった。
若ければ出来ない旅の想い出でした。

この頃、カメラを始めて数年経っており友人から譲って貰ったマミヤ二眼レフカメラC220で撮った写真です。
露出計は付いていなかったので目測で設定したみたいだがピーカンなのでよく撮れたみたいだ。
帰ってきてから自宅で6*6のブロニーフィルムを現像タンクで現像したようだが周辺に現像ムラが出てしまったようだ。
下は、白川郷で撮った写真です。

 

写真について(二)

写真展は最上階の催事場で開催されていた。
確か半切の写真がパネルに貼られ、カラー作品とモノクロ作品が数十点ほど展示されていたと思う。
私が一番目に焼きついている作品は,真っ黒な空に煙のようにもくもくと湧きあがる積乱雲のモノクロ写真であった。全体の五分の一が地上部分,五分の四が空と雲に占められた構図で引き締まった黒い空にくっきりと描かれた積乱雲は恐ろしささえ感じられた。

私はその会場へキャビネに伸ばした雲のモノクロ写真を数枚持っていった。そして鈴木先生に評して頂こうかと思っていた。しかし私が行った時先生は不在で先生の友人と云う方が私の話を聞いてくれた。でもその方は先生の撮影データーなどは知る由もなく、まして20歳そこそこの私の写真を見ても先生に話しておきますよ。と、にべのない返事であった。
それからというもの、私は以前にもまして雲の魅力にとり付かれ、カメラにはモノクロフイルムを常備装填し、休日は勿論のこと会社の休み時間にもカメラを持ち出して雲の写真を撮る始末であった。

また、写真には飽きたらず易しい気象学の書物なども読み始め、ラジオ用天気図用紙を取り寄せて気象天気図を書くほどまでに熱中してしまった。
しかし、写真は撮っていたもののネオパンSSやSSS、トライ-XなどにY2やO2の濃いフィルターを付けて撮った写真には何故か不満を感じていた。やはり写真展で見たあの真っ黒な空にくっきりと浮かび上がった真っ白な雲が目に焼きついていたのである。
その頃、私は一冊の写真集を本屋に頼んでいた。名前は忘れてしまったが定価が3,500円くらいの大判サイズで、すべてモノクロで撮った雲の写真集であった。

大判サイズのこの写真集はページ全体に余白を取らずに写真が印刷され、ページを捲るごとに”ガッーン”と強力な衝撃を私に与えてくれた。鈴木正一郎先生の写真も素晴らしかったがそれ以上にこの写真集には凄い素晴らしさがあった。
同じ雲の生態記録写真なのだが芸術性の高い作品を見えいる様でもあった。

望遠で大胆にカットした写真、ワイドで緻密なまでに撮られた写真、かとおもえば増感してわざと粗粒子に仕上げた写真、見るもの全てがモノ新しく感動の連続であった。
それと各写真に明記された撮影データ。これが私にとっては一番参考になった。私はこの写真集によってミニコピーフイルムを使うことを知り、今まで思い悩んでいたあの”黒い空、白い雲”を手に入れたのである。

雲を撮るようになってからは55mmf:1.8の標準レンズ一本では物足りなくなってきた。
果てのない空に広がる雲を視野一杯に写し込むには広角レンズがどうしても欲しい。
35mm、28mmか24mm、そして欲を言えば魚眼レンズの3本があれば最高なのだが当時の私の給料では3本も買える程の余裕はない。ましてや雲以外にも広範囲に使えるレンズを一本だけに絞るとなると一番無難な28mmになってしまった。

そして手に入れたのがSPの純正レンズ、スーパータクマー28mmf:2.4であった。
ダイキャストシルバーのSPボディーには28mmレンズ、フィルターはY2かO2、そしてフイルムはSS、SSS、トライ-X、ミニコピーを使い分けて撮り捲くっていた。
当時のフイルムフォルダーのメモを見るとこの時期は雲ばかり撮っていたようだ。
たくさんのネガケースには所々に印があり気に入ったコマだけをラボに出してプリントしていた。

その後、風景と撮影会に凝った時期があった。
誰も同じ経験があると思うがポートレートや風景の撮影会などに参加すると、構図を決めるにしても標準や広角レンズだけでは無理な場面が多々ある。風景では遠くにある被写体を近くにグッと引き寄せてみたいと思うのが人情であり、ましてや回りに陣取るカメラマンが筒の長いレンズを装着していれば自ずと劣等感も湧きあがり、当然筒の長い望遠レンズが欲しくなってくる。
私に限らず写真をやっていれば早かれ遅かれ”レンズ欲しい病”が発症してくる。

この病は、傑作を生むが為に必要に迫られて発症する場合と、劣等感からくる必要でもないレンズをたくさん持っていたいと思う心の病として発症する場合がある。
俗に後者の場合を”道具屋”病とも言う。
私も例に漏れず一年ほど経ってから発症した。欲しいとなるといてもたってもいられず当時発刊されていた日本カメラ、アサヒカメラ、カメラ毎日のページを捲っては交換レンズの事ばかり考えていて写真を撮る気にもならなかった。

既に広角レンズは手に入れていたから”望遠レンズ欲しい病”の発症である。
この時も広角レンズの時と同じように3本に絞っていた。105mm、135mm、200mmであり、最終的には撮影目的と予算から考えて一番無難な135mmf:3.5に落ち着いてしまったのである。
欲しかった2本のレンズを手に入れてからは私の”レンズ欲しい病”も”ガマン”と言う特効薬で一応治まった。
それから、勤めていた会社主催の撮影会が何回かあったが当然手に入れた135mmレンズを着けての参加、スーパータクマー135mmf:3.5単玉の素晴らしい描写の真価が発揮されたのは言うまでもない。

(風のつぶやき 2005年5月記事より抜粋)