写真について(四)

その当時使っていた150万画素のデジカメの描写にはWeb上では何の不満もなかった。
とちぎ花博の会場で朝撮ってきた画像をPCのレ・タッチソフト、AdobePhotoshop5.0で画像を処理、そしてすぐさまWebにUP、デジカメの速効性、これはまさに写真に於ける一大革命ではないだろうか。

しかしデジカメ市場に於けるメーカー間の熾烈な競争、これによってデジカメの性能はますます向上し、今や画素数は800万画素以上、また取り扱いも至極簡単になり全てがオートマチック。ただ被写体にカメラを向ければ誰でもが美しい写真を間違いなく撮れる、ウン十万円もする高級な一眼デジタルカメラも今や一昔前の”バカチョンカメラ”と同列になってしまったのではないだろうか。(これはあくまでも私の独断的偏見なる解釈ですので)。

写真関係のWebサイトは今や星の数ほど(私も含めて)あるがどのサイトをみても有名な写真家が撮ったのではないかと思えるような素晴らしく美しい綺麗な作品が目白押しである。
そう言う私も例に漏れず、その後新しく手に入れたコンパクトデジカメで綺麗な写真を追い求め、気に入った作品を見ては悦に入る毎日であった。

そんなある日、写真家のサイトをネットサーフィンしていてある写真家のWebサイトに出会った。そのサイトは全てが銀塩モノクロームで構成され掲載された作品のモノトーンの素晴らしさ美しさに魅了されてしまった。
そうだ、これだ!。カラーだけが写真ではない。

昔のように写真の原点に戻ってモノクロームの素晴らしさを再現してみよう。そして拘る以上は銀塩モノクロフイルム、デジカメで撮りレ・タッチソフトでグレースケールに変換する手法もあるが拘る以上は原点からやってみよう。
一眼レフカメラは以前に買ったミノルタα303siと埃を被ったペンタックスSPFがあった。別に銀塩を始めるからといって新しいカメラを買う必要もない、機械が正常に動くのとレンズにカビなどがなければそれで十分である。しかしSPFの平均測光機能は完全に壊れていた。でも露出は303siで十分代用できた。

休みの日、撮影に行くときはこの二台のカメラにモノクロフイルムを詰め、モノクロに合う被写体を求めて徘徊していた。
日光、足尾、渡良瀬遊水地、そしていまだに拘っている上南摩へとのめり込んでいった。
最初、フイルムはラボへ出していた。しかしモノクロフイルムは需要が少ない為か仕上がりが遅く10日ほど掛かってしまう。露出具合(写真の出来具合)を確認するためにも10日という時間は余りにも長すぎた。

こうなったら自家現像しか方法はない。しかし昔やってはいたがすでに30年も前の事である。処理が出来るかどうかそれが不安であった。
早速、フイルム現像に必要な機材・薬品などを買い揃え、資料を見ながら昔の感覚を想い出し次第にフイルム現像の魅力にとりつかれていった。
(この様子は”フイルム現像顛末記に綴ってあります。)
現像てんまつ記 その一(夏)
現像てんまつ記 その二(秋)

モノクロ写真を撮るようになってから月10本程消費するようになった。
週末にカメラを持って出かけるとだいたい2~3本は撮ってしまう。
使用するフイルムはプレスト400かトライXが殆どで、予備にアクロスを数本持ってゆく。
午前中撮影し、そして午後には撮り終えたフイルムを現像処理、夜までにはスキャナーで読み取ってフォトショップで画像処理して即UPしてきた。

数年前からWebデザインもある程度考えるようになり、フラッシュで編集して載せるようになった。
フラッシュを多用する目的は、デザイン的な面があるがそれと共にUP画像をコピーされる事が出来ない為でもある。
人によってはフラッシュを用いて写真を見せる事を邪道だと嫌う方もいるようだが、Webデザインが進歩している今、その様な考え方自体、頭が古いのではないかと思ってしまう。

さて現像であるが、最初の頃は浅沼商会のプラステック製ベルト付きのタンクに巻き込んでいた。
付属のベルトには両側にダボがあり、巻き込んだフイルムとクリアランスができる様に工夫され、初心者にも簡単に巻き込む事が出来る。
(私も昭和50年頃に現像を始めた頃は、これを使って覚えたものである。)
最初、巻き込みには暗室もダークバックも無かったので暗い押入れに入り、どてらを被って汗だくになりながら巻いていた。

現像液はいつも手に入りやすいフジフィルムのミクロファイン。
現像時間が長いため現像ムラが出にくいのとシャープに仕上がると言う事で1:1の希釈を採用した。
現像時間、液温、攪拌はメーカーの指定を忠実に守って処理。
処理液はそのつど水で更に薄めて廃棄。
液温は大きな器に水を張り、夏場は氷、冬場はお湯で20℃に保ち、その中へタンクを浸して処理液の温度を20℃に保った。
(5月と10月頃は水道水が20℃位なのでストレス無く温度管理が出来る。)

その後、現像液はコダックのD-76に何故か拘りを持ち、今でも私の標準現像液としてD-76、1:1希釈で処理している。
(フイルムがコダックの場合、ミクロファインでは現像処理時間の正確なデータがないためでもある。以前、フジフイルムに問い合わせた事があるが、処理時間は分からないとのにべの無い返事が返ってきたことがあった。)
停止は文献などでは氷酢酸の希釈を薦めているが、水道水を用いても現像ムラなどの変化が無いので今は殆んど水道水で処理している。

(どうしても鼻にツンとくるあの酢酸の臭いが嫌いな為でもある。)
で、だいたい30秒位の攪拌処理。
定着はフジフィックスで10分。
水洗いはフジの水洗い促進液をタンクに注入し、30秒ほど攪拌して水道水の流水で10分程の処理。
これが私の標準的なフイルムの現像処理である。
もともと科学分野には疎い方なのでフイルム現像に関する専門的な化学薬品の知識はない。ただフイルムのコマ数を多く撮って試行錯誤、まさに習うより慣れろである。
(その後、35mmタンクは、LPLのステンレスタンクに替えた。)

(風のつぶやき 写真についてより抜粋)

写真について(三)

ここに一枚の写真がある。
この写真は、私が写真を始めて最初にフイルム現像にトライした記念すべき作品である。
紙製のネガケースには35mmフイルムが6コマに切られて収納され、昭和47年5月撮影とメモがしてある。
フイルムは富士フイルムのSS、36枚撮り、フイルム感度当時はASAと呼ばれ感度100で今のアクロスの前身である。ネガケースには現像処理データも書かれていた。

当時の現像タンクはつい最近まで使っていた初心者向きの浅沼商会プラスチック製ベルト付である。
現像液はミクロファインで処理時間はメーカー指定で処理してあり今とほとんど変わりはなかった。
200本程あるネガの内100本ほどのネガの状態は至って良くカビは殆どなかった。
おそらく当時、鰹節の入ったブリキ缶にテープで封をしていたので湿気を通さなかったのであろう。
ブログ”風のつぶやき!”にUPしてあるチョッと時代遅れの写真や雲の写真は殆どこの頃の作品である。
それから半年位してから漸く引伸ばし機を買うことができた。

それまでは気に入ったネガをK氏の所で焼いていたのだが迷惑を掛けるのと気が引けるのが手伝って機材一式を思い切って揃えてしまった。
確か、引伸ばし機はラッキー90Mで全紙まで引伸ばせる機械であった。プリントは半切が主で印画紙は月光印画紙 (三菱製紙)を使っていた。特に気に入った作品は半切に伸ばし、自分で木のパネルを作って貼り込み部屋に飾っていた。
今でも何枚か残っているが水洗いが甘かったせいか黄色く変色しまっている。

今、思い出すと写真にのめり込んでいたあの当時が非常に懐かしい。
狭い押入れに潜り込んでは”どてら”を頭から被り、汗だくになりながら現像タンクにフイルムを巻き込んだ事、寒い冬の夜、両親が寝静まった後、自然暗室である風呂場でプリントする為にバットに張った現像液や定着液の温度を調整するために鍋にお湯を入れそれをバットに入れて温度を管理した事、定着の終わったプリントの水洗いの為、バケツにホースを引き込み長時間水道を出しっ放しにして水道代が勿体ないと母に叱られた事、などなど想いだしたらきりがない。

酢酸の匂いの篭った狭い風呂場で露光を掛けた印画紙を現像液に浸し、撮った画像がジワジワと現われる時のあの緊張感、そして感動。それは至上の悦楽でもあり、この至福の時は写真をやった者でなければ味わう事が出来ないのではないだろうか。
技法的にもフイルムの増感や減感など。
特に高感度フイルムをわざと感度を上げて撮り(TRY-XをASA1600で)温度を上げたりした現像液で処理する増感もよくやった。

プリントすると粒子が非常に粗く仕上がり、当時写真雑誌で流行っていた前衛的な作品に真似て仲間同士で自慢しあっていた。そして思いつく限りのいろいろな技法を自己流なりにも試していた思い出がある。
その様な訳で当時の僅かな小遣いは殆んど写真という道楽、いや高尚な趣味に消えていったのである。

数年勤めた某電気会社から木材会社と言う未知の世界へと転職した私は新たな仕事を覚える忙しさもあってカメラを持つ機会も少なくなっていた。それでも暇を見つけてはモノクロに似合いそうな被写体を求めていろいろな場所を徘徊していた。
そんな時、友人から中判カメラを使っては見ないかと言う話があった。
友人はマミヤプロフェッショナルC220を持っていたが新しくゼンザブロニカ6*6を買ったのでC220を安くゆづると言う話であった。

その頃、私も中判に魅力を感じはじめ欲しくてしかたがなかった。この降って湧いたような話に飛びついたのは言うまでもない。
C220は二眼レフカメラ、上のレンズで被写体を確認し下のレンズで撮影する上から覗き込むタイプでボデーには標準レンズが付いていた。しかし同じ中判6*6なのだが友人の買ったブロニカが何故か気に掛かる。しかしその当時の私には新品のブロニカを買える余裕などなくC220を2年ほど使っていた。

数年前に整理したネガを見てもブロニーサイズのネガは数えるほどしかなかったのであまり使わなかったのであろう。その当時の私には単体露出計もなく6*6という真四角のフォーマットサイズが使いこなせなかったのではないだろうか。ただ中判という響きの良い名前だけに魅せられていただけなのかも知れない。
それからは仕事に追われ、結婚という事もあって約20年ほどカメラから離れてしまっていた。

1997年7月、私は以前から興味のあったインターネット上にホームページを開設した。
勤めていた会社で新しい事業を始めたことでこの事業を広く知ってもらう目的でその事業内容や情報を詳しく発信していた。最初は今のような便利なソフトも少なく高額であった為HTML言語を勉強しながらメモ帳にタグを打ち込んで立ち上げていた。
またその頃はアクセスポイントが東京にしかなくダイアルアップ回線だったので毎月の電話料金が4~5万円ほど払い込んでいた。

ホームページを更新するのに只一つだけ悩みがあった。写真である。Webに強力なインパクトを与えるには何か惹き付けるような写真が欲しかった。最初はフリー画像で賄っていたがどうしてもオリジナルの画像が欲しい、そんな時、前にも書いたように会社でCADと一緒にデジカメを導入した。150万画素の最新コンパクトデジカメであったがオリジナルの画像を載せるには十分過ぎる解像度であった。

2000年秋、私の住まいの近所の公園をメイン会場にした平成12年全国都市緑化フェアが開催された。私はその様子を発信してみようと開幕以前より会場に入り込んでその様子をデジカメで撮り、会期中毎週のように緑化フェアの情報を発信続けていた。
そしてそれを境にホームページも写真やエッセイ等の私個人の趣味が大きくウエイトを占め、会社のホームページとは別に私の趣味(写真やエッセイ)の発表の場として「五月の風」を発信してきたのである。

(風のつぶやき 2005年5月記事より抜粋)

嘗ての御母衣ダム 1974年(岐阜県)

物置の奥にしまって置いたネガの整理をしていたら思いがけないネガフィルムが出てきた。
私が22歳の頃、友人と3泊で北陸を旅した時の写真である。
その中に、岐阜県大野郡白川村の御母衣ダムで撮った写真が数枚あった。
多分、白川郷に向かう途中に寄った覚えがある。
その頃は、ダムには全然興味もなく序に寄ったのだろう。
(1974年撮影)

水系:庄川
型式:傾斜土質遮水壁型ロックフィルダム
流 域 面 積:442.8k㎡
堤高:131m
堤 頂 長:405m
堤 体 積:7950.000m3
総 貯 水 量:370,000,000m3
有 効 貯 水 量:330,000,000m3
1957年着工1961年完成。
御母衣ダム
岐阜県大野郡白川村大字牧
参考サイト
ダム便覧

閑話休題
北陸の旅は、私の車で二泊三日をかけて栃木から群馬、岐阜、富山、能登半島を一周してきた。
白川郷と能登半島が主な目的でした。
なるべくお金を使わずに行こうと言うことで、宿は取らず食事もパンなどで凌いだり、風呂は銭湯や海で済ました覚えがある。
一番の想い出は、能登半島かな。

恋路海岸で夜を過ごしたが車の窓を開けたまま寝たので一晩中蚊に悩ませれた。
また、恋路海岸から富山に向かう途中、車のファンベルトが切れてしまった。
ファンベルトの替えは持って無いし、ガソリンスタンドも無い。
トランクを開けて何か無いかと探して見ると、タイヤチェーンを固定する輪ゴムがあった。
仕方が無く輪ゴムをファンベルトの替わりに付けて数キロ走った覚えがある。

ガソリンスタンドで見て貰ったが、あと数キロ走ればエンジンを焼いてしまって車はお釈迦だよと言われた覚えもある。
でも、楽しかった。
若ければ出来ない旅の想い出でした。

この頃、カメラを始めて数年経っており友人から譲って貰ったマミヤ二眼レフカメラC220で撮った写真です。
露出計は付いていなかったので目測で設定したみたいだがピーカンなのでよく撮れたみたいだ。
帰ってきてから自宅で6*6のブロニーフィルムを現像タンクで現像したようだが周辺に現像ムラが出てしまったようだ。
下は、白川郷で撮った写真です。

 

写真について(二)

写真展は最上階の催事場で開催されていた。
確か半切の写真がパネルに貼られ、カラー作品とモノクロ作品が数十点ほど展示されていたと思う。
私が一番目に焼きついている作品は,真っ黒な空に煙のようにもくもくと湧きあがる積乱雲のモノクロ写真であった。全体の五分の一が地上部分,五分の四が空と雲に占められた構図で引き締まった黒い空にくっきりと描かれた積乱雲は恐ろしささえ感じられた。

私はその会場へキャビネに伸ばした雲のモノクロ写真を数枚持っていった。そして鈴木先生に評して頂こうかと思っていた。しかし私が行った時先生は不在で先生の友人と云う方が私の話を聞いてくれた。でもその方は先生の撮影データーなどは知る由もなく、まして20歳そこそこの私の写真を見ても先生に話しておきますよ。と、にべのない返事であった。
それからというもの、私は以前にもまして雲の魅力にとり付かれ、カメラにはモノクロフイルムを常備装填し、休日は勿論のこと会社の休み時間にもカメラを持ち出して雲の写真を撮る始末であった。

また、写真には飽きたらず易しい気象学の書物なども読み始め、ラジオ用天気図用紙を取り寄せて気象天気図を書くほどまでに熱中してしまった。
しかし、写真は撮っていたもののネオパンSSやSSS、トライ-XなどにY2やO2の濃いフィルターを付けて撮った写真には何故か不満を感じていた。やはり写真展で見たあの真っ黒な空にくっきりと浮かび上がった真っ白な雲が目に焼きついていたのである。
その頃、私は一冊の写真集を本屋に頼んでいた。名前は忘れてしまったが定価が3,500円くらいの大判サイズで、すべてモノクロで撮った雲の写真集であった。

大判サイズのこの写真集はページ全体に余白を取らずに写真が印刷され、ページを捲るごとに”ガッーン”と強力な衝撃を私に与えてくれた。鈴木正一郎先生の写真も素晴らしかったがそれ以上にこの写真集には凄い素晴らしさがあった。
同じ雲の生態記録写真なのだが芸術性の高い作品を見えいる様でもあった。

望遠で大胆にカットした写真、ワイドで緻密なまでに撮られた写真、かとおもえば増感してわざと粗粒子に仕上げた写真、見るもの全てがモノ新しく感動の連続であった。
それと各写真に明記された撮影データ。これが私にとっては一番参考になった。私はこの写真集によってミニコピーフイルムを使うことを知り、今まで思い悩んでいたあの”黒い空、白い雲”を手に入れたのである。

雲を撮るようになってからは55mmf:1.8の標準レンズ一本では物足りなくなってきた。
果てのない空に広がる雲を視野一杯に写し込むには広角レンズがどうしても欲しい。
35mm、28mmか24mm、そして欲を言えば魚眼レンズの3本があれば最高なのだが当時の私の給料では3本も買える程の余裕はない。ましてや雲以外にも広範囲に使えるレンズを一本だけに絞るとなると一番無難な28mmになってしまった。

そして手に入れたのがSPの純正レンズ、スーパータクマー28mmf:2.4であった。
ダイキャストシルバーのSPボディーには28mmレンズ、フィルターはY2かO2、そしてフイルムはSS、SSS、トライ-X、ミニコピーを使い分けて撮り捲くっていた。
当時のフイルムフォルダーのメモを見るとこの時期は雲ばかり撮っていたようだ。
たくさんのネガケースには所々に印があり気に入ったコマだけをラボに出してプリントしていた。

その後、風景と撮影会に凝った時期があった。
誰も同じ経験があると思うがポートレートや風景の撮影会などに参加すると、構図を決めるにしても標準や広角レンズだけでは無理な場面が多々ある。風景では遠くにある被写体を近くにグッと引き寄せてみたいと思うのが人情であり、ましてや回りに陣取るカメラマンが筒の長いレンズを装着していれば自ずと劣等感も湧きあがり、当然筒の長い望遠レンズが欲しくなってくる。
私に限らず写真をやっていれば早かれ遅かれ”レンズ欲しい病”が発症してくる。

この病は、傑作を生むが為に必要に迫られて発症する場合と、劣等感からくる必要でもないレンズをたくさん持っていたいと思う心の病として発症する場合がある。
俗に後者の場合を”道具屋”病とも言う。
私も例に漏れず一年ほど経ってから発症した。欲しいとなるといてもたってもいられず当時発刊されていた日本カメラ、アサヒカメラ、カメラ毎日のページを捲っては交換レンズの事ばかり考えていて写真を撮る気にもならなかった。

既に広角レンズは手に入れていたから”望遠レンズ欲しい病”の発症である。
この時も広角レンズの時と同じように3本に絞っていた。105mm、135mm、200mmであり、最終的には撮影目的と予算から考えて一番無難な135mmf:3.5に落ち着いてしまったのである。
欲しかった2本のレンズを手に入れてからは私の”レンズ欲しい病”も”ガマン”と言う特効薬で一応治まった。
それから、勤めていた会社主催の撮影会が何回かあったが当然手に入れた135mmレンズを着けての参加、スーパータクマー135mmf:3.5単玉の素晴らしい描写の真価が発揮されたのは言うまでもない。

(風のつぶやき 2005年5月記事より抜粋)

写真について(一)

写真を始めてから半世紀が過ぎた。
当初はセール中の安い一眼レフを手に入れ、子供達の成長記録などをカラーで撮っていた。それも一年間に数本程度であった。

今から十年ほど前、勤めていた会社で最新の建築設計CADを入れ替えると同時に、お客様へのプレゼンテーション環境を充実させCADとデジカメによるコラボレーションを確立する為に最新のデジカメも一緒に導入した。

CADとデジカメ導入については私が主導的立場に立ち、約半年かけて最新の建築設計CADによる建築部材の拾い出しから建築資材の統括的な見積書作成迄をほぼ確立する事が出来た。
CADによる図面の作成はマニュアルどおりに習得すれば誰にでも操作出来るのであるが、建築資材の種類、寸法や単価の入力、資材の拾い出しをする為の設定、そしてそれを基にした見積書の作成、これらの環境設定が一番面倒で試行錯誤しながらの作業であった。結果的にはこの作業が一番時間がかかってしまった。

しかし、一度しっかりと環境設定をし流れを覚えてしまえば後は機械(パソコン)が処理してくれる訳であるから、大変な人的コストの削減になった筈である。
そして、一緒に導入したデジカメ、確か98年に発売されたエプソンのCP600であった。画素数は130万画素と今の画素数とは雲泥の差ではあったが当時としては定価84,800円の最新モデル機であった。これも仕事で使うには十分で現場の撮影、物件の撮影と大変役立った。
それとは別にその頃から私の写真心が再び芽生えはじめ、デジカメを借り出してはいろいろな所を撮っていた。

そして、1997年に”省エネ住宅”の情報サイトとして発信しはじめた私の個人サイト「五月の風」にそれらの写真を載せるようになったのである。
特にデジカメの凄さを実感したのは、2000年に栃木県壬生町をメイン会場に開催された「マロニエ緑花祭2000」であった。
壬生会場は自宅の近所の公園であったので会期中は毎週のようにデジカメを片手に会場の様子を撮り捲っていた。そして、その日のうちに最新の情報を私のサイトに載せて発信していた。

その頃はデジカメの便利さとそこそこに撮ることが出来る解像度にえらく満足していた。
しかし、デジカメの進化は凄まじく半年と言えずに解像度の画素数と性能は鰻上りのように各社各様凌ぎを削りながらも改善されていった。
私も今のデジカメには飽きたらず、量販店のあんちゃんの甘い言葉に囁かれ最新の220万画素搭載のコンパクトデジカメを買ってしまった訳である。

また、その頃私は俳句に興味を持ちはじめ駄句ながらも詠むようになり、俳句関係の書物を読み漁るうちに芭蕉の「奥の細道」に大変興味をもった。
休みを利用してはデジカメ片手に芭蕉の歩いた栃木県内の「奥の細道」をたどり県内にある芭蕉の句碑とともに私のサイトに「奥の細道」栃木路として発信してきた訳である。
(現在は”「奥の細道」野州路を歩く”としてブログに再編中であ。)

しかしデジカメの進化は留まることを知らず、ますます速度を速め今や800万画素数以上となってしまった。
当然この異常な進化には私の懐具合もついてはいけず、現在まで220万画素数のコンパクトデジカメで待機中なのである。
これが私のデジカメに係わった経緯である。

昭和44年宇都宮市の県立U工業高校の電子科を卒業した私は矢板市のS社に入社した。
そこで同郷のK氏と知り合う。K氏は早くから写真をやっており、暗室を作ってフイルムの自家現像からプリントの自家引伸ばしまで既にやられていた。
その頃、K氏は天体観測をやっていて天体の写真を主に撮っていた。

私は天体などには全く興味はなく、彼の処理するフイルム現像、そしてプリントの引き伸ばしに時々付き合わされていた。
毎週土曜日の夜になると決まってプリントの引き伸ばし処理をしていた。それも夜だけ、暗幕を張っての急ごしらえの自然暗室であった。
酢酸の臭いのこもった狭い部屋で現像液に浸した印画紙に徐々に浮き出てくる画像、いつしかこの感動の瞬間が私を素晴らしいモノクロの世界へと導いてくれたきっかけとなったのである。

いつも時間などは関係なく暗幕を外すと東の空は白み始めていた。
この頃、私はカメラを買うために安い給料の中から少しずつ貯金をしていた。初めニコンが欲しくて欲しくて堪らなかったが安給料の当時の私には高すぎて手が出なかった。
一方K氏は天体写真を主に撮っていたので全マニュアルのアサヒペンタックスSVを使っていた。いつもバルブ撮影なので露出計は必要ではなかったのであろう。

私はカメラを何処のメーカーにするか悩んでいたがTTL開放測光を搭載したアサヒペンタックスSPにほぼ絞っていた。その当時、ニコンに比べて価格も安く、レンズも良く、そして何より露出計が組み込まれていて使いやすく一番人気が高かったことが決め手になった。確か当時の価格が50mmF1.8の標準レンズ付で4万円位だったと思う。その当時高卒の私の初任給は21,000円位でした。

手に入れてからというものは、休みになると毎週のようにカメラを持ってはオートバイで徘徊するように写真を撮りまくっていた。
最初のうちは物珍しくカラーでいろいろと撮っていたが、K氏と付き合うようになってからは現像処理の面白さも手伝ってか、次第にモノクロへと傾倒していった。
その頃、私は雲の表情の面白さに魅力を感じK氏の天体写真に対抗して雲の生態写真を撮りはじめていた。

そんなある日、宇都宮市のとあるデパートで宇都宮市在住の気象学者、鈴木正一郎先生の写真展が開かれたのである。

栗山ダム(2013.7.24)

栃木県日光市大字佐下部字平田岳にある栗山ダムに行ってきました。
1988年に完成したロックフィルダムで堤高97.5m、堤頂長340mの発電用のダムです。
ダム形式は揚水式で、今市ダム(下池)の上池として機能している。

ダム湖で右奥に管理棟がある。

駐車広場から見たトイレとダム本体。
駐車場から管理棟までは進入禁止で車では行けないが、歩いて10分位でダムサイトに行ける。

ダムサイト直下にある園地。

栗山ダム管理棟

ここからは、霧降高原にある六方沢橋も見え、逆に六方沢駐車場からはこの栗山ダムを望むことも出来る。
六方沢駐車場より栗山ダムを見たもので、バックの山は高原山です。
ダムの左手前は、日陰牧場です。

栗山ダムには以前から興味があり、今市ダムを取材した時に行こうと思っていましたが今回ようやく念願が叶いました。
栗山ダムに行くには黒部ダムの手前から林道に入り、日陰牧場(現在は閉鎖)の中を通っていきます。
道は狭いですが完全舗装でダムサイトまでいけます。
ただ、ダムサイトの手前には700mほどの夫婦山トンネルがあり、照明はあるのですが一人で行くには非常に寂しい不気味なトンネルです。今回はアマチュア無線のフレンドが一緒でしたので臆病な私も安心して行くことが出来ました。感謝!
下が夫婦山トンネルです。

ダムin栃木2013.7.24記事より抜粋

蕎川庵 高瀬(那須烏山市三箇)(2018.7.16)

栃木県那須烏山市三箇の蕎麦屋蕎川庵 高瀬に行ってきました。
ここは、旧南那須町三箇の田んぼの中の一軒店。
見渡すと前方には清流荒川が流れ、長閑な田園風景の広がる閑静なところにあります。
実家の近くなので、妻の兄弟3人と私と娘6人で行って来ました。

11時ごろに行きましたが店内は満杯。
店に入ると4人掛けのテーブルが3つ、座敷に2テーブル、そしてカウンター。
20人ぐらいは入れるだろうか。

お昼前に行きましたがなかなかの盛況ぶり、後から後からお客さんが絶えませんでした。
美味しい蕎麦だけあって食ベログからの口コミが人気だそうです。
この辺には蕎麦屋さんが少なそうなので知る人ぞ知る蕎麦店なのかもしれません。
腰のあるなかなかの味、久々に美味しい蕎麦をそばを堪能してきました。
因みに、ここのご主人は一緒に行った私の妻の小学校(旧三箇小学校1979年廃校)の同級生だそうです。
近所には子供たちとよく遊びに行った八溝県民休養公園(四季の森)が有ります。
その後、車で15分ほどにある那須烏山市内の山あげ会館を見学してきました。

(Maywindのつぶやき2018年7月16日記事より抜粋)

国際写真サロンinさくら市(2014.9.16)

栃木県さくら市のさくら市ミュージアムー荒井寛方記念館で開催されている国際写真サロン展を見てきました。
国際写真サロンは今回で74回、世界の写真愛好家を対象にした素晴らしい国際写真展です。
さくら市で素晴らしい写真展が開催されたのは平成7年、毎年開催されていますが今年で20回目になります。
巡回展みたいですが東京まで行かずに毎回県内で鑑賞出来るのでありがたいですね。
写真に興味のある方には、大変参考になる写真展ではないでしょうか。

主催は朝日新聞社・全日本写真連盟
協賛はキャノン株式会社・キャノンマーケティングジャパン株式会社
期間は2014年9月5日(金)~15日(月)
会場は栃木県さくら市ミュージアムー荒井寛方記念館
2014年9月7日(日)には写真教室やサロン展の解説会などもあるようです。

下は、同じ会場で2006年6月22日~7月9日まで開催された第66回国際写真サロン。

下は、さくら市ミュージアムの正面玄関。

下は、常設展示の郷土スペース。

さくら市ミュージアム -荒井寛方記念館-
栃木県さくら市氏家1297 Tel 028-682-7123

Movable Type6の導入(2013.10.20)

10月17日にリリースされたMovableType6を早速私のブログに導入してみました。
Movable Type 6は3年9ヶ月ぶりのMovable Type 5からのバージョンアップです。
Movable Type 6を使って新たにマイブログ”ITMayのつぶやき”を作成してみました。
使い勝手はMovable Type 5と同じで、導入に関してはほとんど違和感を感じませんでした。
私は、Movable Type 4から個人無償ライセンスを使っていますがとても素晴らしいWeb Blog作成ソフトではないかと思います。
私のメインサイト”五月の風”以外はすべてMovable Type を使っています。
一部、WordPressを使っています(日帰り温泉in栃木)が、私としてはやはりMovable Typeが機能的にも勝っているのではないかと思います。
しかし、Movable Typeは記事などをUPするたびに再構築しなければならないのが難点でしょうか。
これからは、Movable Type 6がどのように進化したか記事をUPしながら確認していこうと考えています。

“ITMayのつぶやき”は、私のホビーである”アマチュア無線”やIT関連の事、日常の事などをつぶやいていきたいと思っています。
(ITMayのつぶやきより抜粋)

日陰の村(2004.11.10)